佐伯三貴が語る【プロゴルファーとしての私が誕生するまで】


こんにちは。佐伯三貴です。今日は、私が小さい頃にどんなふうにゴルフに触れ、向き合ってきたかをお話ししたいと思います。いわばプロゴルファー、佐伯三貴ができるまで、と言ったらいいでしょうか笑。

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私の家では、子供の頃からゴルフはとても身近なものでした。祖父も父もホントにゴルフが大好きだったからです。

よく覚えているのは、サイパンに家族旅行に行った時のことです。昼間、祖父と父はゴルフに行ってしまうので、兄と私はプールで遊んだり、買い物に行ったりして過ごします。

夕方になると、ラウンドから戻ってきた父が、兄と私をゴルフ場に連れて行ってくれるのです。私たちはまだ小さかったので、パー3のホールを『ここはパー5』。パー5に行くと『ここはパー7』とか『パー8』なんて設定してくれて3ホールくらい楽しく回ることが3~4年続いたでしょうか。2歳上の兄にはなかなか勝てないのが悔しくて、泣きながらプレーしていました。それを見た父は「強くなるな」と思ったそうです。

お父さん子だったので、父が練習場に行くときもついて行っていました。周りの大人たちにチヤホヤされていい気になっていましたね。また、自宅の庭でもボールは打てたので、家でも練習していました。

5年生になると、試合に出るようになりましたが。夏は暑いし、キャディバッグは担がなくちゃいけないし、大変でした。

6年生になると私立中学を受験するためにゴルフを離れます。でも、入学した武田中学にはゴルフ部があったので、本格的にやってみるつもりになりました。
夏期講習があって夏休みが2週間しかないほど勉強に厳しい学校でした。それなのに、試合で夏期講習に行けなかった私は、9月になって遅れを取り戻すのに大変でした。

勉強もしていましたが、ゴルフをしている子たちのほうが話が合うので、全国大会に行って、みんなに会うのが楽しみでした。そのために、遊ぶ時間を惜しんで練習していたほどです。

広島で試合があるときなど、プロゴルファーの人たちが家に来るのも、小さい頃から当たり前でした。青木功さん、海老原清治さん、渡辺司さん、ジャンボさん・・・。家の前の公園で、プロが遊びでアプローチをしていたりもしましたね。でも、小さかった私は「お父さんが一番スゴイ」と思っていたので、プロたちに「お父さんはこうやって打ったよ」と、偉そうに教えたりしていました(笑)。

特に海老原さんには、その後、色々なことを教えていただきました。中学生や高校生の頃には、海老原さんがザ・カントリークラブ・グレンモア(現成田ヒルズCC)に所属されていて、ご自宅に泊まらせてもらって合宿のように一緒に練習したこともあります。朝早く手引きカートにバッグを積んで回るのですが「走って回るぞ!」と言われてすごい速さでプレーしましたね。

ゴルフの師匠はずっと父でしたが、父は身内なのでやはり厳しい。でも、海老原さんは優しく教えてくれました。アプローチショットやバンカーショットなど、今でもイメージを思い出すほど大きな影響を受けています。

子供の頃は一番スゴイと思っていた父については、成長するうちに「あれ?お父さんはプロじゃないんだ」と気付きました。小さな子供の言うことなので、あの頃はプロたちも笑って聞き流してくれたのかもしれませんね。

中学、高校時代、練習場には祖父が付いて行ってくれていました。その祖父が亡くなった時(2004年)に、プロになろうと決めたんです。父は、アマチュア競技に長い間出場していて、私はプロになるまで一度もゴルフで勝てませんでした。でも、父は私がプロになった2007年に、競技に出るのもやめてしまいました。その後プロになってからも、ずっとゴルフは見てもらっていました。

ゴルフ一家で生まれ育った私が、プロゴルファーになったのは、自然な成り行きだったのかもしれませんね。現在の私はツアーからは離れた今でも、違う形でゴルフのある人生を送っています。ゴルフがライフタイムスポーツだからこそ、出来る事でもありますね。

取材・文/小川淳子 写真/Getty Images

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